『内村鑑三所感集』 より

hiro732013-02-06


明治三十四年(1901) 善きこと三つ p.44 
○健康のみが善きことではない、病気もまた善きことである、同情と推察とはより多く病気のときに起こるものであって、多年の怨恨(えんこん)も一朝(いっちょう)の病気のために解けることがある。

・・・


明治三十九年(1906) 患難の解釈 p.173
患難(かんなん)はこれを消極的に解すべからず、積極的に解すべし。これを神の刑罰として解すべからず、神の恩恵として解すべし。神の憤怒(ふんぬ)の表彰として解すべからず、その慈愛の示顕(じげん)として解すべし。・・・



明治三十九年(1906) 恩恵としての患難 p.175
・・・神は無益に患難を下し給わず、これを自己かまたは他人を救うために下し給う。患難はたしかに神の恩恵なり・・・



明治四十二年(1909) 損失の利益 p.260
一友人を失うはさらに他により善き友人を得んがためなり、一事業に失敗するはさらに他により貴き事業に成功せんがためなり、壊(くち)るこの世の物を失うは壊ざる天に宝を積まんためなり。失うは得ることなり・・・



明治四十四年(1911) 善事としての困難 p.335
善をなすことのみ善事にあらず、困難に耐ゆること、これまた大なる善事なり。われらは自ら困難に耐えて困難にある多くの同胞を慰むるをうるなり。・・・



明治四十四年(1911) 恩恵と永生 p.341
・・・無限の恩恵は無限の生命を証す。われはこの短き生涯において神の恩恵を受けつくすあたわざるを知りて、わがためになおこれを享(う)くるの時と所との存するあるを識る。・・・・



大正三年(1914) 誤らざる生涯 自分の実験 p.377
余(よ)のなすべきことはすべて成功なりし、余のなすべからざることはすべて失敗なりし。余が余のなすべからざることをなさんとせしや、神は悪人を送りてこれを毀(こぼ)たしめ、あるいは疾病(やまい)を送りてこれを妨げ給えり。これに反して余がなすべきことをなさんとせしや、神は友を送りてこれを外より助けしめ能力(ちから)を加えて衷(うち)よりこれを補い給えり。・・・



大正四年(1915) 悪評の幸福 p.389
人に善く思わるるは危険である、かれに悪しく思わるる時が来るからである。人に悪しく思わるるは安全である、われはかれが思うよりも善くなることができるからである。・・・最も安全にして最も幸福なることはすべての人の悪評の下に謙遜なる生涯を送ることである。



大正五年(1916) 恐るべからざるもの三 p.394
・・・失敗は方針を転ぜよとの神の命令である、われらは失敗を重ねて神の定め給いにしわが天職につくのである。・・・患難はわれらを神の懐(ふところ)に駆(お)い追(や)るためのかれの鞭(むち)である、われらは患難に遭うて神のわれらのために設け給いにし休息(いこい)の牧場(まきば)に入るのである。・・・




内村鑑三所感集』 鈴木俊郎 編 岩波文庫 より引用させていただきました。


私たちに次々とやってくる様々な苦難は、もちろん嫌なことであり、避けて通りたいものです。しかし、よく考えてみると、もしそれらの苦難を「神」や「仏」あるいは「(宇宙の“はたらき”であるところの)大いなるもの」からいただいた大切な学びの機会なのだと捉えることができるならば、もはやそれらは苦難ではなくなります。


「これには、きっと深い意義が隠されているに違いない」と考えて、「ここから、私はどのようなことを学ぶことができるのだろう」と、常に問い続ける姿勢を保つことが大切だと思います。


苦難は単なる苦難ではなく、とても貴重な勉強の場なのかもしれないのです。そう考えると、本当に、ありとあらゆることに有り難いと思わずにはいられなくなります。それが良いことであろうと、(見かけの上では)悪いことであろうと、全ての起こったことについて感謝を捧げる“相手”を何らかのかたちで認識していること、そして現に感謝できていること・・・もしそうできている自分を発見したならば、それは、なんと幸せなことでしょうか・・・


もちろん、その問題に隠された深い意義というものは、「大いなるもの」の眼で見てはじめて理解できることなのであって、もしかしたら人間の小賢しい思考の及ぶものではないのかもしれません。つまり、私がいくら問い続けても、いつまでも答えが分からないということもあり得ます。しかし、たとえそうであっても、絶えず「大いなるもの」の“存在”や“はたらき”を感じつつ、その問いを持ち続けながら、謙虚に生きていくことが大事なのではないかと考えます。まさにそれこそが「祈り」の日々を送るということなのではないか・・・そう思われてなりません。


それにしても、もし「苦難」が(つまり大切な「学びの機会」が)死の間際まで私たちに与え続けられるのだとすれば、私はやはり、肉体が朽ちるか燃やされるかした後の・・・その先の「何か」、あるいは古くから言われているところの「浄土」や「天国」というものを想定せざるを得ません。しかし残念ながら、そうした「何か」というものは、それこそ人間の小賢しい言葉の及ぶ範囲ではない事柄なのだろうと思います。