トルストイ 「要約福音書」 より


緒言 p.256下段(トルストイの言葉)
・・・
予は光を知らなかったのである、そして、人生には真理の光はないものと考えていたのである。しかるに、人はただこの光のみによって生きるものであることを確信するにおよんで、予は、その源泉を求めはじめて、ついにそれを、あやまてる教会の注釈にもかかわらず、福音書のなかに見いだしたのである。・・・



(以下、「要約福音書」の中のイエスの言葉)
3 生命の本源 p.275上〜下段
・・・わが言う神の国は、その接近を眼をもって見うるものではない。・・・神の国は、時間ないし空間のうちに存在するものではない。・・・あたかも電光のように――そこにも、ここにも、いたるところにあるものである。・・・わが説くところの神の国は――汝らのうちにあるからである。・・・


神の国 p.282下段
・・・一、怒ってはならぬ。すべての者に平和でなければならぬ。二、淫蕩なる肉欲を享楽してはならぬ。三、何事にまれ、なんぴとの前にも誓ってはならぬ。四、悪に抗してはならぬ、裁いてはならぬ、訴えてはならぬ。五、各国民のあいだに差別を設けてはならぬ、他国人をも自国人同様に愛さなければならぬ。・・・以上の戒律はすべて、つぎの一つのなかに含まれている――汝人にせられんと思うことは、すべて人にもそのごとくせよ。・・・

p.283上段
・・・
また祈る時には、偽善者のように言葉を費やすな。・・・

p.283下段
・・・
地上に蓄えを用意してはならぬ。地上にては虫がくい、錆びがつき、盗人が盗む。ただ天の富を蓄えよ。・・・



5 真の生命 p285下段〜p.286上段
・・・
わが教えを悟って、それにしたがえ。さらば、汝ら生命において平安と歓喜とをうるであろう。・・・心さえ平安温良であれば、汝の生涯には幸福が見いだされるであろう。・・・

p.292上段
・・・父の意志とは、怒るなかれ、放蕩するなかれ、誓うなかれ、悪に抗するなかれ、人に差別を立つるなかれ、これらのうちにあるものと告げよ。・・・


6 偽りの生命 p.295下段〜p.296上段
・・・おのが肉の生命のために思いわずらうものは、真の生命を滅ぼすものだからである。しかし、父の意志を行なって肉の生命を滅ぼすものは、真の生命を救うものである。・・・


7 われと父とは一なり p.305上段
・・・生命と光とは同じものである。・・・わが教えによれば、人生に意義がある・・・

p.309上段
・・・真理を証明(あかし)することはできない。真理は、それ以外のすべてのものを証明(あかし)するものである。・・・


8 生命は時間を超越している p.315下段
・・・
信仰とは、ある驚くべき事物を信ずることにあるのではなくて、自己の地位を悟り、救いの何であるかを悟ることのうちにあるのである。汝もしおのが地位を悟れば、報酬を期待することなく、汝にゆだねられたことを信ずるに至るであろう。・・・



トルストイ全集 14 宗教論上』中村白葉・中村融 訳 河出書房新社 「要約福音書」(中村白葉 訳)より引用させていただきました。



仏教で言うところの「十善戒」の内容と、この「要約福音書」の中でイエスが語った戒律の内容とを比べると、共通する部分がかなりあることに驚かされます。


「不殺生」は「一、・・・すべての者に平和でなければならぬ」に含まれるのではないかと思います。

「不偸盗」は(ここでは引用していないp.300上段の)「盗むなかれ」と、「不邪婬」は「二、淫蕩なる肉欲を享楽してはならぬ」と、「不妄語」は(ここでは引用していないp.300上段の)「偽るなかれ」と同じです。

「不両舌」と「不悪口」はぴったりくるものではありませんが(ここでは引用していないp.318下段の)「人にたいして悪念をいだくな」に含まれるように考えられますし、「不綺語」は「祈る時には、偽善者のように言葉を費やすな」と共通するものがあるように思われます。

「不慳貪」は「地上に蓄えを用意してはならぬ・・・ただ天の富を蓄えよ」と似ており、「不瞋恚」は「一、怒ってはならぬ」と同一です。

「不邪見」については、この「要約福音書」全体に真理を悟って生きるべきとのメッセージがあふれていますので、広い意味では共通するのではないかと思います。


仏教と(ここではトルストイがとらえたところの)キリスト教という、成り立ちが全く別の宗教において、このように戒律の共通する部分が多いのだとすれば、それらの戒律はかなり普遍的な「善」を含んでいるのではないかと私には思われます。


ところで、ここで使われている「真理の光」「生命の本源」「神の国」「真の生命」「父」などの言葉は、煩悩のない本当の(または本来の)私、その私が、その中に溶け込んで一部となっているところの宇宙のはたらき、宇宙の流れ、大いなる存在・・・そういった「何か」を表現するものだろうと思います。

呼び名は何でもよい、と私は考えています。それを「神」と呼んでも「仏」や「如来」と呼んでも、いっこうにかまわないと私は感じています。


そして、ここで使われている「肉の生命」というのが、煩悩によって汚れた(または眼をさえぎられた、つまり真理を見ていない)仮の「私」のことではないか、と思います。

本当の私は本来その「大いなるもの、または大いなるはたらき」の中に渾然一体となって溶け込んでいるのに、煩悩があるゆえに、この人生を生きている限り誰もがその煩悩をどうすることもできないがゆえに、そこから「私」を分離し、それに執着してしまう・・・そのことが「肉の生命」という言葉で表現されているのではないかと感じます。


仏教の「十善戒」にせよ、この「要約福音書」の中で述べられている戒律にせよ、全てをいっぺんに行うことなど(少なくとも私には)とてもできません。そんなことをしたら(仮の「私」はすぐに)パンクしてしまいます。

しかし、たとえほんの少しであっても、無理のない範囲で、何か私にもできそうなことはありそうです。全てができないからといって最初から諦めてしまうのではなく、できるところから、少しずつでも行なっていければよいなと思っています。
また、「いくら行いたいと思っても、できない自分」というものを痛感する場面も、当然のことながら多くあることでしょう。その「できない自分」を見つめていきたいと考えています。
それらが、生涯において、本当の意味での「幸福」や「意義」を見い出すための道を歩んでいく、ということなのだと私は信じます。