『チベット密教 心の修行』 と 『沙石集』 等 より

hiro732014-10-06


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さらには、「与える(トン)・受け取る(レン)」の修行が現実のものとなったと考えることもできます。深い慈悲心から「与える(トン)・受け取る(レン)」の瞑想を行なうことで、他者(一切衆生)の苦しみを受け取ることができるようになったために、自分はいま苦しい状況(逆境)に立たされているのだと思って歓喜することもできるでしょう。また、「私の受けている苦しみによって、一切衆生の苦しみが癒されていくように」と願い「その願いが、いままさに実現したのだ」と喜びを感じることもできるでしょう。
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チベット密教 心の修行』ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ,藤田省吾 共著 法藏館 第三章 悟りへの道 「逆境」を悟りへの道に変える p.214 より引用させていただきました。





・・・法界ヲ身(しん)トシテ*、自他異ナラザレバ、衆生ノ苦(く)、則(すなわち)菩薩(ぼさつ)ノ苦ナルヲ、代(かはり)テ受(うく)トイヘリ。・・・
(* 万有の総称《意識の対象となる一切のもの》を法界といい、その本性、即ち真如を身としているので。)



『日本古典文學大系 85 沙石集』無住 編 渡邊綱也 校注 岩波書店 巻第二(九)菩薩代受苦事 p.126 より引用させていただきました(「代受苦ノ義ニ、古徳、七ノ意ヲノベタリ《p.125》」の七つ目)。





【代受苦】だいじゅく 他人に代わって苦しみを受けること。菩薩の大慈悲心についていう。大悲代受苦ともいう。・・・



『佛教語大辞典 下巻 ス―ワ』中村元 著 東京書籍 p.931 より引用させていただきました。





なぜ、つらい苦しみが、私たちに次から次へともたらされるのか・・・
おそらく、人間の知恵では、「本当のところはどうしてなのか分からない」というのが事実なのでしょう。


しかし、人間であるからこそ、「その理由や意味の分からない苦痛」というものに耐えていくことは非常に困難です。


私はこの問題についていろいろと考え悩みましたが、とりあえず現段階では、言わば「心の杖」として「代受苦」という考え方をとることが、生きていくために必要なのではないかと思い当りました。


つまり、「今まさに私が苦しんでいるこのことが、世界のどこかにいる誰かの苦痛を減らしている・・・ 私のこの苦しみは、ご縁のある誰かの苦しみを、代わりに引き受けているということなのだ・・・」と感じることで、自らの「苦」に意味を見つけることができるのではないか、と考えるのです。


もちろんそう考えることによって、痛みや苦しみがなくなるわけではありません。
しかし、痛みや苦しみがありながらも「杖」を手にすることによって、たとえ不器用でも、この先をなんとか歩いていけるはずです。


残念ですが、少なくとも私は「一切衆生」の苦しみを代わりに引き受けられるような器ではありません。
あるいは、「一切衆生」の苦痛を、ただ想像してみるだけでも耐えられないかもしれません。


そこで、せめて
「今私がこの○○*を苦しむことによって、どなたかの苦痛が、どうか少しでも軽くなりますように」
と心の中で繰り返しとなえていきたいと思います。
(* 例えば病気、障害、経済状態、失業、人間関係・・・その他さまざまな逆境など。)


「菩薩」がなさるような「代受苦」は到底無理で、「瞑想」さえもなかなか上手にできない私ですが、今後は自分のできる範囲で「ささやかな代受苦」を目標とし、少なくとも「代受苦」という考え方をとることによって、自らの苦しみに巻き込まれたり、振り回されてしまわないように工夫していきたいです。