2005-01-01から1年間の記事一覧

山折哲雄 『西行巡礼』 より

(西行が地獄の絵をみて詠んだ歌について) ひまもなき炎のなかのくるしみも こころおこせばさとりにぞなる 西行の晩年の意識がとらえた地獄と極楽の背中合わせの世界を、この一首はよく示しているといっていいだろう。地獄の苦しみのなかから、あるいは悟り…

友松圓諦 「法句経講義」 より

・・・「自分」というものを探したって、どこを探しても出てきません。目か、耳か、鼻か、口か、足か、手か、心臓か、そんなところに「自分」というものはあるわけじゃない。そんならどこにいったい「自分」というものがあるか。実はどこにも「自分」という…

小坂国継 『西田幾多郎の思想』 より

・・・一般に、自己否定という言葉は消極的な響きをもっていて、それは自己を滅却する、自己を無にする、自己を犠牲にするというような意味を含んでいる。けれども、それは同時に自己を見いだすとか、生かすとか、目覚めるとかいった積極的な要素を含んでい…

定方晟 「死という迷信」 より

道元の「生死の中に仏あれば、生死なし。・・・この生死は、すなはち仏の御いのちなり。(『正法眼蔵』生死)」という言葉について > 「仏」・・・は、現代風に言えば、「宇宙」や「存在すべて」のことだと考えてよい。現代人は宇宙を物質的なものと見ている…

宮坂宥勝 『仏教箴言集』 より

・・・清らかな生活者は顔色が朗(ほが)らかである。なぜであるか、『相応部経典』諸天相応 葦品第十 の中にブッダの詩を伝えていう。 過ぎ去ったことを悲しまず 未(いま)だ来らぬことをもとめず。 現在あることによって生き、そのために容色は朗らかであ…

日野原重明 『テンダー・ラブ』 より

・・・人をゆるせるか否かは、人間に与えられた大きな試練です。傷つけられたときこそ、私たちは生きかたが問われるのです。相手を憎んだり、仕返しをしたり、相手を自分の思うとおりに変えようと一方的に望むより、まず自分が人を愛せる人間としての行動を…

谷川俊太郎 「他人の心より分かりにくい自分」 より

・・・勝新太郎さんがどこかでこんなことを言っていた。おれっていう人間とつきあうのは、おれだって大変だよ。でも、おれがつきあいやすい人間になっちゃったら、まずおれがつまらない。私はすっかり感心した。自分とつきあうのが大変だなんて考えたことが…

稲葉秀賢 「歎異抄 第一条の解説」 より

・・・私にかけられた願いの世界は、遠くかつ深い。親から願いをかけられているばかりか、妻からも、隣人からも、はたまた有縁のあらゆる人からも願いをかけられている。もっとも、そのなかには私を憎んでいる人があるかも知れない。けれども憎むということ…

山折哲雄 『悪と往生』 より

・・・「地獄一定」が真実なのか、それとも「往生一定」が本当の話なのか、― 唯円が親鸞の面前で眼を白黒させている光景が思い浮かぶ。しいて理屈をつければ、生きているあいだは「地獄一定」であるけれども、しかしそれだからこそ死んでのちは「往生一定」…

増谷文雄 『無量寿経講話』 より

(無量寿経の結語(流通分:るずうぶん)について) ・・・かかる仏智のいとなみを信ずることは、まことに難しいことであって、まさに、難中の難であり、この難にすぎたるものはないけれども、これは、仏の大悲によって説かれたものであり、これよりほかには…

石田瑞麿 『教行信証入門』 より

(「誠に知んぬ。悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没し、名利の太山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証(しんしょう)の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷(いた)むべ…

佐々木宏幹 『聖と呪力の人類学』 より

・・・神秘体験の大前提、それは宗教対象にたいしておのれを無化し、空っぽにすることであった。空っぽの仕方は文化により、宗教的伝統により異なっていよう。要はひとすじにおのが信じる対象にすべてを投入するとき、対象もこちらに及ぶ。両者の及び合う感…

東井義雄 『仏の声を聞く』 より

・・・いつも、バカにしながら読んでいたお『正信偈』の「凡聖逆謗斉廻入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう) 如衆水入海一味(にょしゅうしにゅうかいいちみ)〈 凡・聖・逆・謗(ほう)、斉(ひと)しく廻入(えにゅう)すること、衆水の海に入って、一…

青山俊董 『道元禅師に学ぶ人生』 より

・・・今やっていることを何かの足しにしようと思わない。今やっているそこへいろいろなものを持ちこまない。おごりたかぶったり、ひがんで落ちこまない。ひたすらに、まっすぐに、無所得、無条件でそれに立ち向かう。そのこと自体を目的として打ちこんでゆ…

鈴木大拙 『真宗入門』 より

・・・彼女(妙好人 森ひな)は、「[念仏が]称えられるのはまったく自分の力だと思っていました」と言うのです。・・・ ・・・私に念仏が称えられるのは、「自分の力」ではなく、「親(アミダ)の力」、他力であります。すべては他力から来るのです。・・・…

鷲田清一 『「聴く」ことの力』 より

・・・生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんがほんとうに生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのが、思いのほかむずかしい・・・(略)・・・生きるということが楽しいものであることのたっぷりとした経験、そういう人生…

森 有正 『生きることと考えること』より

人間にとっては、「生きること」と「考えること」を離すことは事実上できません。つまり、「よく生きる」ということは「よく考えること」、「よく考えること」は「よく生きること」で、この二つは離すことができない。私はそう思うのです。 ・・・ことばとい…

上田紀行「『我がまま』こそ生きる力」より

・・・「いい子(:他人の価値観や期待感を内面化した人)」は他者と相乗的な関係が築(きず)けない。「我がまま(:あるがままの自分の存在)」の自分を取り戻そうとすると、どうしても「ワガママ」になってしまう。それは、「我がまま」の取り戻しが、自…

高浜虚子「いずれも宇宙の現れの一つ」 より

・・・私等の感情も、意思も、生活も、これを山川草木、禽獣(きんじゅう)虫魚にうつして、詠嘆することが出来る。何となれば、人も禽獣も草木も同じ宇宙の現れの一つであるからである。八十年の人の命も、一年の草の生命も、共に宇宙の生命の現れであるこ…

鈴木大拙 『禅と日本文化』より

(蕪村の俳句「釣鐘にとまりて眠る胡蝶かな」の解釈について) ・・・われわれは蝶の内的生命に、否、自分たちの内的生命、というよりむしろ生命そのもののなかに、人間智をあまりに読み過ぎるということになりはしまいか。生命は、表面的な意識を占むるにす…

岩田慶治『草木虫魚の人類学』より

・・・部屋へ戻ると、私はすぐさま蚊帳をはずし、布団をたたんでそこに静坐した。黙然として坐った。そうすると、どうしてかはわからないが、自分がこうして大地の上に坐り、大地を見つめていることが、そのままに、大地の側から自分を見つめていることだ、…

鎌田東二『身体の宇宙誌』より

・・・おそらく、言葉という死体ほど長い生命をもつものはないのではないか。長い歴史のうちに伝承されてきた言葉とは、死体の変容したものなのだ。死体から生体へと送り込まれ、そして生体から死体へと送り届けられるもの、それが言葉なのである。であれば…

『風姿花伝』より

私儀(しぎ)に言ふ。そもそも、芸能とは、諸人(しよじん)の心を和(やは)らげて、上下(じやうか)の感をなさんこと、寿福増長(じゆふくぞうちやう)の基(もとゐ)、遐齢延年(かれいえんねん)の法(ほふ)なるべし。きはめきはめては、諸道(しよだ…

『正法眼蔵随聞記』より

・・・人をば殺すとも、人には不被殺(ころされじ)なんどと、思ふ時こそ、身もくるしく、用心もせらるれ。人は我(われ)を殺すとも、我は不加報(ほうをくわえじ)と、思定(おもいさだ)めつれば、先(ま)づ用心もせられず、盗賊も愁(うれ)へられざる…

『神谷美恵子日記』より

人間は神なしで正しい生活が送れるものだろうか。これもその人ひとの性格によるのだろう。神との対話という形で深奥の精神生活を営む事が自然ならば、そうするのを何はばかる必要があろう。神学的にみてその神が何であろうと問題ではない。神は人間の精神の…