『清沢満之集』 と 『内村鑑三所感集』 より

hiro732013-07-13

(『清沢満之集』より)

無限大悲の如来は、如何(いか)にして私に此(この)平安を得せしめたまうか。外(ほか)ではない、一切の責任を引受けてくださるることによりて私を救済したまうことである。如何(いか)なる罪悪も、如来の前には毫(ごう)も障(さわ)りにはならぬことである。私は善悪邪正(ぜんまくじゃしょう)の何たるを弁ずるの必要はない。・・・

・・・如来は、私の一切の行為に就(つい)て責任を負うて下さるることである。私は只(ただ)、此(この)如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に遍満(へんまん)してある。・・・




清沢満之集』安冨信哉 編 山本伸裕 校注 岩波文庫 第1部 他力の大道 2 我は此(かく)の如く如来を信ず(我[わが]信念) p.20〜21 より引用させていただきました。





(『内村鑑三所感集』より)

われわが神に依り頼みてわが責任の重きを思わず、そはわれこれを担うにあらざればなり。われわが身を神に委(ゆだ)ねて神はわがためにわがすべての責任を担い給う。われ時には全宇宙がわがために活動(はたら)きてわが用をなすかのごとくに思う。




内村鑑三所感集』鈴木俊郎 編 岩波文庫 明治三十七年(1904) 責任軽し p.112 より引用させていただきました。






私は過去に「依頼も承諾もしていないのに、生きることに関する責任が既に被せられているということを、果たしてどのように考えたらよいのでしょうか」と書きました(2005-07-29 鷲田清一『「聴く」ことの力』より)


しかし、今はその考え方を撤回します。
そもそも、この「問い」自体が間違っていたのです。


「私の生に対する責任を“私が”持っている」とか(もっと言うならば)「“私の”生」とかいうような思いが、どれほど傲慢であるか・・・
そのことに、全く気づきもしていなかった自分が、実に恥ずかしい限りです。


このような自らの傲慢さを認識しないまま一生が終わらなくて、本当によかったと思いますし、そしてまた、その、おごりたかぶりを教えてくださった何か大いなるものの「はたらき」を感じずにはいられません。


“私が”、“私の”、“私こそ”・・・そのような意識が、消え去ることは非常に難しいです。しかしたとえ一瞬であっても、その意識が薄れたときに垣間見られる、すでに自然に「はたらいてくださっている何か」を忘れずに、いつも心に保ち続けられるようになりたいと願います。