『旧約聖書 ヨブ記』 と 『現代語訳 わが信念』 より

hiro732013-12-07


(『ヨブ記』より)

・・・
二 わたしにわかりました、
 あなたは何事でもおできになる方、
 どんな策をも実行できる方であることが。
三 〔無知をもって計画(はかりごと)を暗くするこの者は誰か。〕
 それなのにわたしはわかりもしないこと、
 知りもしない不思議について、
 語ったことになります。
・・・
・・・
六 それ故(ゆえ)わたしは自分を否定し
 塵灰(じんかい)の中で悔改めます。
 



旧約聖書 ヨブ記』関根正雄 訳 岩波文庫 第42章 p.160〜161 より引用させていただきました。






(『現代語訳 わが信念』より)

・・・このように自力が無効であることを信じるには、わたくしの知恵や思案のすべてを尽くして、もう頭の上げようがないようになるということが必要です。これが非常に骨の折れる仕事でした。・・・何が善であり何が悪であるか、何が真理で何が非真理であるか、何が幸福で何が不幸であるか、一つも分かるものではありません。わたくしには何も分からないとなったところで、いっさいのことに関して、すべて如来を信じ、如来に頼るということになりました。このことがわたくしの信念のもっとも重要な点です。
・・・




『現代語訳 わが信念』清沢満之 著 藤田正勝 訳 法藏館 14 わが信念 p.106〜107 より引用させていただきました。






口ではいくら「私なんて」と言って謙遜していても、心のどこかでは(自分ならば何とかできるはずだ、いや、きっと何とかしてやる)と思っている・・・
ところが何事も、そううまくはいかない・・・たくさんの失敗を繰り返す・・・いつの間にか行き詰まり、どんなに努力して、もがいて苦しんでも先に進めない自分というものを発見する・・・


考えれば考えるほど、この「行き詰まり」こそが、私に本当に大切なことを悟らせるためにもたらされた「お恵み」であり「お慈悲」であるのだなあ、と思われてなりません。


「私」には行き詰まり絶望することが必要だったのだ、とことん絶望しなければ“本当に大切な何か”を認識できないほど「私のおごり高ぶり」は強いものだったのだ、心の底から絶望してはじめて高慢の鼻がへし折られるのだ、とつくづく感じます。


こんなにも傲慢無礼な者を、それでもなおかつ救ってくださろうとするはたらきがある・・・その「はたらき」を「神」、「仏」や「如来」という言葉を使わずにどう表現してよいものか分かりません。


絶望こそが、光をもたらすのだと思います。
もちろん、ちょっとやそっとの絶望ではだめなのでしょう。
たたいてもたたいても、油断すればすぐに顔を出してくる「おごり高ぶり」が続く限り、今後も、何度でも「行き詰まり」が“大いなる何か”から私にもたらされ、それによる絶望を通じて、何度でも大事なことを思い出させてくださることでしょう。


逆に言うならば、もし「本当に行き詰った」のであれば、その時こそ、既に「救われている」と考えてよいのではないかと思われます。


昔から「窮(きゅう)すれば通ず(易経・繫辞[けいじ]下伝より)」と言うけれど、これはまさに真実なのだなあ、と古人の洞察力の深さに改めて感銘を受けずにはいられません。