『福音書』と『内村鑑三所感集』より

hiro732014-09-17


(「マタイ福音書」第18章 21・22・35節より)

21 その時ペテロが進み寄ってたずねた、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したとき、何度赦(ゆる)してやらねばなりませんか。七度(しちど)まででしょうか。」
22 イエスがこたえられた、「いや、あなたに言う、七度までどころか、七十七度まで!
・・・
35 わたしの天の父上も、もしあなた達ひとりびとりが心から兄弟を赦さないならば、同じようにあなた達になさるであろう。」



(ルカ福音書第15章 18・19・20節より)

18 よし、お父さんの所にかえろう、そしてこう言おう、『お父さん、わたしは天の神様にも、あなたにも、罪を犯しました。
19 もうあなたの息子と言われる資格はありません。どうか雇人(やといにん)なみにしてください』と。
20 そして立ってその父の所へ出かけた。・・・




新約聖書 福音書』塚本虎二 訳 岩波文庫 「マタイ福音書」第18章「不埒な家来の譬」21・22節 p.127 ・35節 p.128 、 「ルカ福音書」第15章「放蕩息子の譬」18・19・20節 p.236〜237 より引用させていただきました。




内村鑑三「起ちてわが父に往かん」より)

われ一たび罪を犯さんか、われは起(た)ちてわが父に往(ゆ)かん。われふたたび罪を犯さんか、われは起ちてわが父に往かん。われ七たび罪を犯さんか、われは起ちてわが父に往かん。われ七たびを七十倍するまで罪を犯さんか、われは起ちてわが父に往かん。わが父の愛は無限なり、かれはわれの滅びんことを欲(ねが)い給(たま)わず、かれはわれにつきて永久に絶望し給わず。ゆえにわれもまた自己につきて絶望することなく、かれの無限の愛を信じ憚(はばか)らずして今日起ちてかれに往かん。ルカ伝十五章十八節。



内村鑑三所感集』鈴木俊郎 編 岩波文庫 明治四十二年(1909)「起ちてわが父に往かん」 p.278 より引用させていただきました。





以前、マタイ福音書の第18章・21〜35節を読んで、とても感銘を受けました。


しかし恥ずかしながらその理解は、「ペテロ」が言った字義通りに、罪を犯すのは「兄弟」のほうであり、被害にあって怒りを感じながら、それにもかかわらず「赦してやらねばな」らないのは当然私のほうである・・・という傲慢なものでした。


その《私が被害者だ》という認識は、実は、まるで逆だったのです・・・


今私は、自分こそが「七度」・「七たび」どころではなく、「七十七度」・「七たびを七十倍」以上も罪を犯してきたし、これからも犯していくであろう身なのだということをつくづく感じています。


ところで、私が何か悪い行いをするということと、神様・仏様から罰がくだされるということは、実は同時なのではないか・・・つまり、悪い行いをしてしまってその《悪》に気づいていないというまさにそのこと自体が、既に神仏からの罰を受けているということに他ならないのではないか、と思われます。


したがって、誰が見ても明らかな「罰」というのは、本当の罰ではなく、あくまでも二次的なものだと考えます。


思えば、悪をなしている者(私)が、その行いについて、心底から悪いことだということを分かっていないのだとしたら、まさにそれこそが最大の罰ではないでしょうか。


その最大の罰の後に、誰が見ても明らかな何らかの「罰」がくだされたとしても、もはやそれは本当の意味での罰ではなく、神仏からの「どうか分かってくれ」という配慮や慈悲・愛の込もったメッセージであるにちがいない・・・そう感じます。


「私こそが(被害者ではなく)罪をおかした当人なのだ」と知ることには、酷い憂うつが伴います。とても辛いことです。
しかしそれを知ったということは、既に神様・仏様の温かい眼差しを受けているのだということを胸のうちに抱きながら、謝るべきことは謝り、償うべきことは償い、そして勇気をもって何度でもやり直す姿勢を保ち続けていきたいと思います。