『シレジウス瞑想詩集(上)』 より

hiro732012-05-25


第1章
85 どのようにして神の言葉を聴くか。
永遠の言葉が語っていることをあなたの中で聴こうと思うならば、まずあなたは完全に聴くことをやめなければならない。


93 自己の内面に言葉を聴く。
自己の内面にいる人は、自分の意志と関係なく、時間や空間とも関係なく、神の言葉を聴く。


299 沈黙して聴け。
言葉は、他人の口よりもむしろあなたの中で多く響く。だから沈黙して、今から言葉を聴くがよい。


第3章
188 言葉は今でも生まれている。
まことに永遠の言葉は今日なお生まれている。どこにおいてか。それはあなたの中においてあなた自身を捨てるところに。






『シレジウス瞑想詩集(上)』 植田重雄・加藤智見 訳 岩波文庫 第1章 p.31〜32(85)、p.34(93)、p.93(299)、第3章 p.230(188) より引用させていただきました。






この世の中は、なんとたくさんの言葉で溢れかえっていることでしょう・・・


あまりにも言葉が多過ぎるので、私はいつも、ほんとうに大切な言葉を見失ってしまいます。
そして、見失ってしまった大事な言葉に再び出会うまで、なんと気が遠くなるほどの長い時間がかかることか・・・


とにかく、洪水のように押し寄せてくる「情報」を、どうにかしてせき止めなければなりません。


私の中に、世間とつながっていたい、時代に乗り遅れたくない、という気持ちもあります。
そんな気持ちから、急き立てられるように「情報」を追い求めてしまうことがあります。


そしてまた、「自分自身」が自らを「語りたい」という欲望を、よくよく見つめなければならないとも思います。
自らを「語る」ことは、とても心地の良いものです。自分のことを他者に「認めてもらいたい」という欲求も強いです。しかし、そうしてばかりいるうちに、ほんとうに重要な言葉を聴く機会がどんどん通り過ぎてしまっているような気がします。


ほんとうに大切な言葉を聴くためにまずできることは、今私が向かっているところの、まさにこのPCを、いったんシャットダウンしてみることなのかもしれません。

『住宅顕信 句集 未完成』 より

hiro732012-01-17










流れにさからうまい歩けるだけを歩く










住宅顕信 句集 未完成』 春陽堂 「試作帳」 p.049 より引用させていただきました。




どんなに苦しいときでも自分や環境を受けいれ、さまざまなことがうまくいかないながらも、その「うまくいかない」という状況そのまま、自らのできる範囲でなすべきことをなし、なんとかやり過ごしていく...

その「自分」も「環境」も「状況」も、実は何か大いなるものから与えられているものなのだということを忘れないで...


苦しいから心が大きく揺れて全てを投げ出したくてしょうがないけれど、それが大いなる「流れ」だと感じられるのであれば、ギリギリのところではあきらめないで、たとえ細々とであっても続けていく...


そのような生き方ができればよいなあと心から思います。
もしかしたらこの句が、そんな人生を歩む支えとなってくれるのではないか...そう感じました。

亀井鑛 『父と娘の清沢満之』 より

hiro732011-09-18


・・・(母親の設計図通りにいかない娘の結婚について、山内利子さんは)わが心をふり返りながら、
「子は親の私のものだと思いこんで、万事自分の計画通りいかないと気の済まない私の心。その、自分にこだわる心が先に立って、わが子のしあわせをさえも、心の隅で壊れたらいいと、すなおに祝えないものがあった。自分の執心とはこんなに恐いものか、と思い知らされ、頭が下がった」という。
ままにしたい、あてにしたい心だろ。利子さんはつづけて、
「一切のものは、如来から必要な分だけ賦与されていた。それを受けるだけ。そのまま無条件、とあらためてわかりました。でもまたすぐ、請い求めるんですけど、そこでまたハッと気付かされて、『請う勿(なか)れ。求むる勿れ。爾(なんじ)何の不足かある。・・・』に戻らされます。あ、こんな楽な道があった。これが“大道”だと知らされます」という。
すべての計画、計量計算は無効なんだ。無量なる寿(いのち)を生きるんだ。なのに僕らは、逆の有量(うりょう)にいつもいる。計画、計量計算が有効だと思いこんでいるんだよ。はっと有量の自分に気付かされれば、無量の道にいる。・・・



『父と娘の清沢満之』亀井鑛 著 大法輪閣 19 如来の大命・自分の稟受 娘の結婚話に反対―山内利子さんの話 p.241〜242 より引用させていただきました。



南無阿弥陀仏と称えさせていただきながら、
私は結局、何も、おまかせしていませんでした。


私の「南無阿弥陀仏」は、「どうか、私に都合よく、物事がうまくいってください」という
実に自分勝手な、おまじないの言葉に過ぎなかったのです。


すべてを仏さまにおまかせするということを、
たとえその結果が、自分の都合に良かろうと悪かろうと、
すべてをおまかせしますということを、
頭では理解していたつもりだったのですが...


自分の無理のない範囲で、できることや、なすべきことを行ったのであれば、
あとはもう、どうなろうと、おまかせすればよいのではないか...
おまかせできないで、無理をしてでも自分の都合に合わせようとする...
まさにそれが、苦しみなのではないか...


つまるところ、私は仏さまを、疑っていたのです。
たとえ“気付き”があったとしても、それはほんの一瞬のことで、
この文章を書いている今でさえ、疑いが拭いきれないのです。
私とは、とんでもない思い違いの塊(かたまり)なのだなあと、痛感します。

中村 元 訳 『仏弟子の告白』 より

hiro732011-08-10


666 正しい方法による損失もあり、不正な方法による利得もある。不正な方法による利得よりも、正しい方法による損失のほうがすぐれている。


667 叡智の少ない人々が名声を得ることもあり、聡明な人々が不名誉を受けることもある。聡明な人々の受ける不名誉のほうが、叡智の少ない人々の得る名声よりもすぐれている。


668 愚人から称讃されることもあり、また識者から非難されることもある。愚者から称讃されるよりは、識者から非難されるほうがすぐれている。


669 欲望の快楽から起る快感もあり、また独(ひと)り遠ざかり離れることから生ずる苦しみもある。欲望の快楽から起る快感よりも、独り遠ざかり離れることから生ずる苦しみのほうがすぐれている。


670 不法なことをして生活することもあり、また法をまもって死ぬこともある。不法なことをして生活するよりは、法をまもって死ぬことのほうがすぐれている。




仏弟子の告白 ― テーラガーター ―』中村 元 訳 岩波文庫 十四ずつの詩句の集成 ゴーダッタ長老 p.142〜143 より引用させていただきました。




大事なことは、私の言動が「他人からどう見られるか」ではなく、「神様や仏様は、どう見ておられるのか」ということなのだと考えます。


また、「神様や仏様は、私のことを、私のこの辛い状況を、きっと分かってくださっている」と信じることが大切だとも思います。


いつも気にしてばかりいる「他人」という視点を、自分も他人もはるかに超越した何か大いなる存在、つまり、神や仏の視点に転換してみるのです。


そのうえで、神や仏とともに歩みながら、私は本当はどうしたいのか...私は本当はどのように生き、どのように死んでいきたいのか...そのことを熟慮しつつ、たとえわずかであっても、少しずつ前へ向かって進んでいきたいと思います。

H.S.クシュナー 『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』 より

hiro732011-04-07


(p.236)
・・・愛は完全無欠を賛美することではなく、欠点のある人を欠点にもかかわらず受け入れることなのです。不完全な人間を愛し受け入れることによって、私たちはより善い人間、より強い人間になっていくのです。


(p.238)
・・・
あなたのまわりの人びとが、その不完全さのゆえにあなたを傷つけ失望させたとしても、あなたは彼らを赦し、愛することができるでしょうか? 完全な人間などどこにもいないのだし、愛せないなら孤独になるだけなのだからと、あなたは不完全な人びとを赦し、愛することができるでしょうか?


神は完全ではないと知った今でも、あなたは神を赦し、愛することができるでしょうか? 不運や病気や残虐が存在する世界を創り、それらがあなたをおそうのを防ぐことができない、傷つけ失望させる神を、あなたは赦し、愛することができるでしょうか? あなたの両親はあなたが必要とするほどには賢くも、強くも、完全でもありませんでしたが、あなたは彼らを赦し、愛することを知りました。そのように、あるいはヨブのように、限界があるにもかかわらず、あなたは神を赦し、愛することを知るようになれるでしょうか?


もし、あなたにそれができるならば、赦すことと愛することは、完全には多少欠けるところのあるこの世界で、私たちが十二分に、勇気をもって、そして意味深い人生を生きるために、神が与えてくださった武器であるということがわかるのではないでしょうか。
・・・



『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』 H.S.クシュナー 著 斎藤武 訳 岩波現代文庫 8章 ほんとうの宗教 p.236、238 より引用させていただきました。




「神を赦(ゆる)す」とは、いったいどういうことなのか・・・あるいは、それはどんな境地なのか・・・
おそらくこれは、一生をかけて深く深く掘り下げていくべきテーマなのでしょう。
現在の私には、このことについて、残念ながらとても何かを語れそうにありません。


それでも、その、一生をかけて追い求めていくであろう壮大なテーマへの序章として、まずは「まわりの人びとを赦す」ということについて考えてみたいと思います。


その前提として、自分を含め「完全な人間などどこにもいない」という自覚が必要だろうと感じます。
つまり、何が本当に正しいのか、あるいは何が本当に間違っているのかということは、私自身にも知り得ないし、その他の誰にも知り得ないだろう、という気づきが大切だと思います。「私はいつだって正しいのに、あの人は間違ってばかりだ」と心の中で言うことは、思い上がりかもしれない、ということです。


したがって、大小さまざまな他者とのぶつかり合いにおいて私が問題にすることができるのは、他者と私のどちらが「正しいかどうか」ではなくて、「価値観がどう違うのか」ということなのではないか・・・そして、「私とは違う価値観をもつ他者」を受け入れることができるかどうかということが、「まわりの人びとを赦す」ための重要な第一歩となるのではないか・・・と考えるのです。


例えば、私は幼い頃より両親から「時間の約束」はとても大切で、これを守ることが人と人との信頼関係をつくるのだ、と厳しく教え込まれました。
そのせいか、今でも約束の時間を守らない人を見ると、どうしても腹が立ってしまいます。


しかし、時間の約束を守るにこしたことはないけれど、時間の約束を絶対に守らなくてはならないという宇宙の法則があるわけではありません。
私が両親に教え込まれたことが本当に正しいのかどうかということは分からず、あくまでもそれは価値観の違いということです。さらには、その自分とは異なる価値観を受け入れることができるのかどうか、ということが問われているのではないかと思うのです。


「時間の約束を守らない人もいるのだな」と、そういう別の価値観をもった人の存在を認めよう・・・
たとえその価値観が好きにはなれないにしても、自分とは違う価値観をもった人がいるという事実を受け入れよう・・・
そして、他人が自分と同じ価値観をもつことを要求したり期待するのを、もうやめにしよう・・・
これまでの反省の意味も込めて、心からそう思います。
もちろん、そうは思っても、実際のところ「受け入れる」というのは本当に難しいことだなあと、痛感する毎日ではありますが・・・


別の価値観を尊重することによって、自分自身の幅が今よりも広がっていくことになるかもしれません。
そして、それは決して自分の価値観を否定したり、犠牲にすることとは違います。
自分の価値観を保ちながら、相手の価値観も尊重したいと思います。


もしそのことが、赦し、愛しながら生きていく人生への入り口に立つことにつながるのであれば、こんなに嬉しいことはありません。

外山滋比古 『思考の整理学』 より

hiro732010-12-29


・・・長い間、心の中であたためられていたものには不思議な力がある。寝させていたテーマは、目をさますと、たいへんな活動をする。なにごともむやみと急いではいけない。人間には意志の力だけではどうにもならないことがある。それは時間が自然のうちに、意識を超えたところで、おちつくところへおちつかせてくれるのである。


努力をすれば、どんなことでも成就するように考えるのは思い上がりである。努力しても、できないことがある。それには、時間をかけるしか手がない。幸運は寝て待つのが賢明である。ときとして、一夜漬のようにさっとでき上がることもあれば、何十年という沈潜ののちに、はじめて、形をととのえるということもある。・・・



『思考の整理学』 外山滋比古 著 ちくま文庫 「寝させる」 p.40〜41 より引用させていただきました。



ここで著者は、あるテーマに関する思考や着想、すなわち“アイディア”について述べていますが、よく考えると、私たちを困らせる様々な悩み事についても、同じようなことが言えるのではないでしょうか。


もし、日常のレベルを遥かに超えた宇宙大の時間に思いをいたすならば、時間が解決しないことなど、実は無いのだと考えます。


悩み事を心の中で、いつまでもいつまでも、こねくりまわすのをやめる。そして、放っておく・・・
時の経過に、おまかせする・・・
もちろん全てを忘れてしまうわけではなく、課題として心のどこか片隅に置いておくという自覚は、ぼんやりと持ちながらも、いわば、あえて「棚上げ」にしておく・・・


そのうちに、いつのまにか環境や状況が変わっていて、「なんてことなかった」ということになるかもしれないし、逆に、劇的な解決策がふいに浮かび出ることだってないとは言えません。時間が経って、ものごとを見る視点が少し変わることで、悩みがどこかへ消えていってしまうことも、少なくありません。


「取り越し苦労」とは、よく言ったものです。


何がなんでも絶対に解決しなくてはならない、解決できないのは私の努力が足りないせいだ・・・と思い詰めれば思い詰めるほど、苦しみの泥沼にはまってしまいます。その行きつく先には、自分の“こころ”や“からだ”にとって、さらには“いのち”にとってさえも、きっとよくないことが待っているに違いありません。


それにもかかわらず湧き上がってくる不安に手を焼くときには、「だいじょうぶ、なるようになる。時間が解決しないことなんて無い」と心の中で何度か唱えて、やり過ごすことにしたいと思います。

『河合隼雄著作集13 生きることと死ぬこと』 より


(p.279)

・・・ここで大事なことは、マイナスの事柄を創造の病いとするには、マイナスと思っていることのなかに“意味”を発見し、また自分自身を掘り下げる必要があるということです。私、私と知ったようなことをいっているが、本当はわからないところがいっぱいある。その私の知らない“私”が、病いを通じて掘り下げられる。・・・


・・・私のところへ相談にいくと、つらさがなくなったり、苦しさがなくなったり、幸福になったりすると思われる方がありますが、それは大間違いで、むしろ逆です。相談にこられるほど苦しみがふえる、荷物がふえる、という感じではないでしょうか。せっかくもっている自分の荷物を、正面からみてみよう、自分の苦しみをもっとまっすぐに体験してみよう、ということになるからです。そうすると、いままで見えなかったものが姿をあらわしてくる。それが、ここで申し上げている創造の病いです。・・・



(p.287)

・・・こういうことをわれわれに考えさせてくれる契機は実際にあるのです。家族との関係にもあるし、職場の関係にもある。それから、自分の体との関係にもあります。たとえば、風邪を引いて会社を休まなければならないことがあります。そうすると、この忙しいときに風邪を引いて、たまらないと思うのですが、考えてみると、それは体のほうが、お前は“すること”にちょっと重みがかかりすぎているから、もう少し“あるほう”をやったらどうかと忠告しているのではないか。体の病気が、“すること”に対するわれわれの評価の高すぎに対して、いっぺんゆっくり休みなさい、そこにただいるというだけでいいではないかということを教えようとしているのではないか、と私は思っています。・・・




河合隼雄著作集13 生きることと死ぬこと』河合隼雄 著 岩波書店 「働きざかりの落とし穴 ― 中年の発達心理学」 p.279、287 より引用させていただきました。




自分の、あるいは他者の(ひいては、家族や社会の)痛み、かゆみ、違和感、不快感、そのほかの心身のさまざまな「病(やまい)」、いろいろな言語や非言語で表現される何らかの「ネガティブな気持ち」、トラブルや事故・・・それらの「困ったこと」を、否定しないであるがままに受容する。決して軽んじないで尊重する。たとえその問題に「科学的な」、または「納得のいく」根拠が見つからなかったとしても、その存在を認めて、逃げずにきちんと向き合う。そこから、きっと道は開けてくるのだろうと感じます。


これらの「困ったこと」は、自分や他者の「内面」からの訴え、つまり、さまざまなかたちをとって現れた何らかの「メッセージ」だと考えて、そのことを重んじて、しっかりと受けいれるのです。その「内面」は、もしかしたら、それぞれの個体を遥かに超えた何か宇宙のはたらきのようなところにつながっているのかもしれません。


その「メッセージ」の意味が、たとえ人間の小賢しい思考によっては分からなかったとしても、きっと何か重要な意味があるはずだと信じることが大切だと思います。人間の狭く、短く、小さな視点ではなく、それを転回させて、何か大いなる存在の(それは仮に「神」や「仏」あるいは「宇宙のはたらき」と呼んでもかまわないのではないかと考えます)広く、長く、大きな視点によって問題を捉えるところを想像してみるのです。


このような困った問題の「意味」には、いろいろな段階があることでしょう。たとえば、日常生活においての意味、個人の身体的・心理的な意味、人生全体という長い目で見たときの意味、家族という一つのシステムにおける意味、社会的な意味、「意識の世界」とは別の「無意識の世界」での意味、スピリチュアルな(霊的な)意味・・・ひとつの段階で「意味」を見出すことができなかったとしても、「意味がない」と決めつけてしまうことはできません。


たとえその答えが見つからなくても、どうにか見つけようと試みていくこと。もしかしたら答えは無いのかもしれない・・・それでも、問いつづけながら生きていくこと。そうした姿勢をもつことが、とても大事なことのように思われてなりません。